天才写真家が撮った期間限定の男女の笑顔。
ある作家が父への怒りと悲しみを綴った一節のエッセイ。
それぞれのエピソードは、
自分自身の経験と重なって、小さな啓示に変化しました。
尊敬する作家たちが生み出す色とりどりの文章。
文章を書き始めた頃、自分も彼らと同じように
書きたいともがいていました。
彼らの作品が持つ、「らしさ」はどこにあるのか。
リズム、展開、言い回し。
その中に答えを見つけては、文章を書きました。
一番書く事が楽しかった時期かもしれません。
けれど、HDDのフォルダを開いて、
ファイル名からは内容を思い出せないまま
その時期に書いた文章を読み返してみれば、
作品たちは高い完成度でありながら、
驚くほどつまらないのです。
ただ美しいだけの、センテンスの連なり。
どれも読み終えたあとに、
何一つ感想も感傷もカタルシスも残さない。
そんな中で、たった一つ例外を見つけました。
テクニックもなく、推進力を起こす展開もなく、
目新しい言い回しもないけれど、
過去の僕が今の僕の心を揺らした言葉たち。
作った何かではなく、確かに創ったしるしが見える文章は、
一人の友人に向けた感謝の手紙でした。
何度か読み返しているうちに
この手紙が、その他の文章に勝っている部分を見つけました。
それは、完全に個人的な想いで文章が成り立っていること。
そして、想いの行き先がはっきりしていること。
つまりは、たった一人しかいない僕の感情が、
たった一人の相手に向けて放たれているという点。
圧倒的な才能を持つ写真家が、
美しい旬の男女を撮ったとしても、
そこに映るものが、純粋に笑顔だけであれば、
誰かの心を動かす力を持ち続けるのは、わずか一週間。
けれど、作家が父に向けた文章に激しい怒りを込めた様に、
僕が大切な人に向けた文章にありったけの感謝を込めた様に、
どこかで生まれた100%オリジナルの想いが、
100%の不透明度でイメージされた誰かに向かうなら、
それはいつまでも色あせず、
不特定多数の人々の心を打ち抜くエネルギーを持ち続けます。
「創られたものにあって、作られたものにないもの」
そんな問いをぶつけられたら、きっと僕の答えはこうです。
プラスマイナス関係なく、
圧倒的に個人的な意思で全てが満たされていて、
全てのパーツが明確な目標に向かって存在していること。
だからいつだって思うのです。
この文章に載せたい想いは何か、
その想いを伝えたいのは誰か。
創り手たちが、持ちうる知識と経験と時間をかけて生み出した
オリジナリティという極限。
もしも、それらが唯一無二という矛盾を超えて、
一つの川の流れに注ぐのなら、
いつかその川が全ての人の心を震わせる場所に合流するなら。
だから、オリジナリティが共通点を持つのなら、
そこにあるのは、誰かの笑顔が見たくて手紙を贈るような、
強く単純な始まりと終わりを持つ想いだけなのかもしれません。
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