もう何度か同じ事を書いてきたけれど、
少しのご勘弁を。
もう10年くらい時間をさかのぼった、ある日の夕暮れ。
僕は近所の商店街を歩いていました。
スーパーの自動ドアが開いて、
姿を現した母親と、足下にまとわりつく男の子。
母親は両手にぶらさげた重そうなビニール袋を自転車のカゴに入れて、
子供用のシートに男の子を乗せました。
そして、ふらふらと自転車を引いて僕の少し前方に移動して、
ペダルに重心をかけたその時。
足はペダルを踏み外して、大きくバランスを崩したのです。
僕は急いで手を伸ばしましたが、大事には至らず、
「大丈夫ですか?」という問いに、恥ずかしそうに会釈で応えた母親は、
今度は上手にスピードに乗って、走り去っていきました。
そうして僕は、その場で動けなくなってしまったのです。
頭の中には鮮明に色づいた記憶であふれていました。
僕はさっきの男の子くらいの幼さ。
母親のこぐ自転車の後ろで、目の前にある赤いセーターを両手で握っています。
左右を通り過ぎる景色は、どれもありふれているけれど、
そこかしこから夕食の準備のいい香りが流れてきます。
あたたかい夕暮れのオレンジ色に照らされながら、
僕は今向かっている家の事を考えています。
弟と兄がお腹を空かせ、ヘソをまげて待っていて、
もうすぐ父が帰ってくる場所。
それはきっと毎日繰り返されていた日常なのに、
僕は走る自転車の上で、確かに満ち足りていました。
その生々しい幸福感は、大きくなった体に溶けて、
僕の一部になったけれど、二度と触れる事のできないものです。
そんな記憶を持つことへの感謝と、
それが過去である事のどうしようもなさ。
その大きな気持ちのうねりを抱えて、
僕はその場に座り込まないだけで精一杯でした。
ただ「大切にしなきゃ」とだけ誰かに誓いながら。
先日他界された阿久悠さんは、歌に生きた人です。彼はいつも
「時代の扉が開くとき、そこにはいつも歌が在ってほしい」
と願っていたと言います。
僕は誰かが悲しみ暮れたとき、そこに言葉が在ってほしいと思う。
こうして書き綴る何気ない言葉で、
あの日よみがえった記憶にはきっと及ばないけれど、
いつか誰かの気持ちを温めたいと思う。
kumariさん、素敵な言葉ありがとうごさいます。
その時が来たら、何かの力になれるように日々を送ります。
例えば、そう、「大切にしなきゃ」と自分に言い聞かせながら。
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