この間の記事に書いたけれど、『慟哭 林郁夫裁判』を一気に読み終えました。
これはオウム真理教に生きる意味を見い出そうとして、
ついには地下鉄車内でサリンを撒き、無期懲役の判決を受ける男の人生の話です。
地下鉄サリン事件が起きたとき、僕は高校のグラウンドで体育の授業中でした。
誰かが地下鉄で大きな事件が起きたらしいと言い、
毒ガスが撒かれたと言い、
5000人の人が死んだと言い、
事件が起きたらしい駅は、同級生の父の会社がある駅だと言って青ざめました。
林郁夫は優秀な心臓外科医であったにもかかわらず、
しかしもしかしたら医師であったからこそ
目の前で日々繰り返される生き死にの不思議さと理不尽さに悩み、
オウム真理教との出会いを運命と感じ、いつしかその中枢に座る事になります。
オウムが創価学会の会長をサリンで殺害しようとした際の実行犯が
自分でサリンを吸い込み、それを治療する事で麻原の裏の顔を覗き、
麻原本人から坂本さん一家殺害の際は「うまくいったのに」という言葉を聞き、
口止めのために、さらなる大きな事件の実行を命じられ、
葛藤の末についに実行に移す事になる林郁夫。
彼が自らの裁判と平行して
麻原の正体を世間に暴露しようとする姿は、
亡くなられた2名の勇敢な駅員のご家族の前で
慟哭しながら反省の弁を語る姿は、ただひたすらに「人間」です。
だからこそ「極刑を望む」と言い続けた被害者家族の方々は、
裁判の終盤に「死刑を望めない」と言い、
最後には「死刑を望まない」という上申書を書く事になったのでしょう。
この作品の中には、迷い、堕ちて、苦しみ、泣き叫ぶ、
僕らと同じ人間の姿があります。
しかし一方で、麻原の奇行に「自」と「他」のあまりに大きな隔たりと
「他」の持つ闇の、そしてもしかしたら「自」が持っている闇の深さに
ただただ呆然としてしまいます。
6年もの間、一言も言葉を発する事なく生きること、
自分の娘たちの前で当たり前のように自慰行為をすること。
現世に絶望してオウムという楽園の長になり、
それが壊れたとき信者に全ての責任を押し付け、
それがかなわないとわかったとき、ただ一人の世界に沈んだのか。
どこまでも想像の域から出る事はありません。
林郁夫の人生から、人の心はこれほどう虚ろうものなのかと、
これほど大きな振り幅を持つのかと考えさせられる一方で、
麻原の人生から、そのすべてに背を向けてとじこもれるほど
深く大きな闇を人は抱えているのかと考えこんでしまいます。
あとがきの中で、筆者の佐木隆三さんが麻原と
ドストエフスキーの『悪霊』の主人公の姿を重ねています。
多くの人を従える事に成功し、彼らの手を汚してリンチ殺人を行う男。
裁判にかけられた彼は、自分を信じたモノたちを「豚の群れ」と呼んだと。
しかし、人は豚の群れではなく、無限の縁を持った可能性の固まり。
それを壊す事は、無限に連なる罪に汚れる事だ。
オウムの闇の一端を読み終えた僕は、また少し強くなれたでしょうか?
どうか、そうであったらいい。
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