写真は川面を流れる桜の花びら。
さて、明日明後日が今年のお花見のラストチャンスだとか。
きっと何千という人がブログで桜を語ってるんだろうな。
気持ちわかります。ということで今夜は昨日に続いて桜の話を。
「花見」という言葉、他の言葉には訳せないのだそうです。
花と言えば桜を意味したほどに、日本人は桜を愛した。
その理由は散り際の潔さにあります。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と新渡戸稲造が言ったように、
どう美しく死ぬかは日本人にとって、とても重要でした。
だから何かに追われるように散って、そして後に何も残さない
文字通り「無残」な散り際をみせる桜は愛された。
たぶん昔は桜の美しさを、満開の時期に感じたのだろうけれど、
今はやっぱり幾千の花びらを散らせる姿に目がとまります。
何だか歌舞伎みたいだなって思うんです。
豪華で、それでいて舞台のような刹那の煌めきがある。
舞台の上は、観客が足を踏み入れては行けない聖域です。
ただ、少し離れた場所から見つめる事でしかかかわれない場所です。
その美しさに自分の身を置こうとすると、罰がおこる。
そんな風に感じてしまうほど、桜は日本人のDNAに
何かしらの意味を持って組み込まれてるものなのかもしれません。
中学校の古文の先生が言っていました。
夜から朝に時が移り変わるその時に、
桜を見に行くとわかる。
地面を覆う幾千の花びら。
それは心細い朝日を浴びて、
妖しく光を放つのだと。
でも花びらの中に入ってはいけません。
君たちはまだ理解できないかもしれないけれど、
世の中には、この世のものではない美しさがあります。
それは眺めることだけが許された美しさです。
触れると、憑きます。
だからこそ、たくさんの人が憑かれないように
桜は一瞬で散るのです。
うまくは説明できないけれど、
今では少しだけわかる気がします。
視界を埋める桜吹雪。
僕らはそれを惜しむけれど、
切なさは胸をかすめるけれど、
歌舞伎役者の見栄を切る姿に叫ぶように
心の中でその散り様に「見事」とつぶやく。
きっとそれくらいの距離感が丁度いい。
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