こんばんは。
今日は写真を見せると言って、結局間に合わなかった
二十歳くらいのときにした旅行のお話を。
でも先に謝っておきます。
このお話は半分は旅行のお話、
もう半分は、会いたい人にはいつか会える、というお話。
タイのバンコクにあるファラポーン駅から東南への向かう列車に半日乗って、
国境の町アランヤプラテートで軍隊と交渉をしてビザを手に入れて。
軽トラックの荷台に15人くらいの行商の人たちに混ざって詰め込まれて、
当時世界一の悪路と呼ばれていたダンシングロードを
炎天下にさらされて12時間走って、お尻全部に青あざを作って。
そんなこんなの旅路のあと、
あの日僕はカンボジアのバッタンバンという街で、
アンコールワットの街シェムリアップへ向かう船が出るまでの24時間と少しを、
どうすごそうかボンヤリと考えていました。
宿から見下ろすアスファルトなんて敷かれていない道路に舞う砂埃と、
半裸のままでどんなに注意深く見ても
ルールのわからないビリヤードを楽しむ子供たち。
風にのって運ばれてくるフルーツの淫靡な香りが鼻をかすめて、
世界の終わりのような夕焼けの後で汚れた水路に小さく蛍が舞う。
買い物の支払いには自国の通貨ではなく、
アメリカドルかベトナムドンしか受け付けず、
アランドロンて名前のタバコを絶対に本人に許可もなく製造して売っている。
そんな街でのお話。
夕暮れ後に街へ出て、小さな屋台で
タイのビールと肉団子の入ったヌードルを待っていたら、
宿の前でみかけた男性に声をかけられました。
明日の予定は決まっているか?そんな言葉。
旅の間、あからさまに危険な雰囲気がある場合を除けば、
どんな場所にでも付いていっていた僕は、
翌日彼の運転するバイクタクシーの後ろに乗って、
曰く「1000年前の遺跡」を見に行ったのです。
翌朝、まだ涼しい空気の中をバイクで走っていると、
空模様がおかしいことに気が付きました。
東南アジアのスコールには慣れていたけれど、
どうも本気の雨模様。
ついに雨は降り出して、運転手にどこかで雨宿りをしたいと言ってみたけれど、
どうやらそのとき走っていた道は、長く雨が降ると一面の水溜りになってしまうらしく、
あと1時間はこのまま走り続けたいとの応え。
ダンシングロードで「水溜り」が、時には「川」なることを知ってはいたけれど、
それでも風邪だけはひきたくない、とダダをこねる僕に運転手が出した案が、
「僕のレインコートに一緒に入ればいい」でした。
彼はバイクの座席の中にブカブカでいくつも穴の開いた雨合羽を持っていて、
僕もそこに二人羽織みたいな感じで一緒に入れという意味。
想像しただけで不細工な見た目に一瞬断りかけたけれど、
もちろんそんな僕らを見ているのは、そこらにたくさんいる巨大な水牛くらい。
どうしてかやたらと楽しそうに笑う彼を見ていたら、
なんだかどうでもよくなって、
僕は素直に二人羽織案に賛同することにしたのです。
体の芯まで冷え始めていた僕は、
真っ暗な雨合羽の中が予想以上に温かいことがうれしくて、
パチパチと音を立てる雨音を聞きながら、
運転手と話をはじめました。
これから向かう遺跡のこと。
彼がタクシー運転手になった理由。
3ヶ国語を自由に操り、もとはユニセフで働いていた彼が
運転手をせざるを得ない環境について。
日本のこと、カンボジアのこと。
そして、彼はポルポト軍に父を殺され、
僕は父を病気で失っていたこと。
そうして、言葉が切れて、
耳に届くものが雨音と
頼りないバイクのエンジン音だけになって、
少し不安になって。
目の前の彼の背中に触れたとき、
本当にあふれだすように思い出したんです。
「いつかもこうして、背中に触れたことがある」と。
あの日、小さな僕は、たいした理由なんてなかったはずなのに、
小さな家出をして、そのうち日が暮れて、
まだ見つかりたくないけれど、
誰かに見つけて欲しいと思いながら、
近所の空き地に隠れていました。
そのうち、名前を呼ぶ声が聞こえて、
僕はびっくりして、一歩も動けないままバタバタとあわてたのです。
探しにくるのは、きっと母だと思っていたのに
現れたのは仕事を終えた父だったから。
予想もしていなかった展開に、僕はどうしていいかわからなくて、
やさしく「帰ろう」と言ってくれたことがうれしかったのに、
思わず「お父さんは関係ない!」と大声で言ったんです。
そうしたら、父は生涯で一度だけ、
僕を引っ叩いたんです。
ただ一言「お父さんと祐介はいつだって関係ある」と言って。
そう、僕が思い出した背中は、
あのとき、家に帰るとき泣きながら触れた、
父の背中だった。
父を亡くしたとき、僕は何もかもが怖くって、
自分で自分の感情を殺してしまって、
もう起きない父を前に、うまく泣くことができなくて。
それはずっと胸の痛みとして残っていました。
もうそれを謝ることもできないのに、
僕はきっと大好きな人が亡くなっても、
泣いてもあげられない人間だと。
でも、東南アジアの豪雨の中で、
僕は確かに父の背中にもう一度会えた。
どうせ誰にも聞こえやしないから、
声に出して言ったんです。
ごめんなさい、もう大丈夫と。
そう、だからこのお話は半分は旅行のお話、
もう半分は、会いたい人にはいつか会える、というお話。
そして、届けたい言葉は、
届けようと思えるようになった日のお話。
東京よりも寒いその町で、
どうか風邪をひかないように。
また明日、このフロアで会いましょう。
おやすみなさい。
素敵な夢を。
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